Mag-log in翌朝は、よく晴れていた。
朝の光が、宮の白い石壁に跳ね返って、廊下をまぶしいほどに照らしている。
庭の木々からは、季節外れに元気な小鳥の声が、絶え間なく聞こえてきた。
あまりに穏やかな朝だったせいで、私はその報せを聞いたとき、しばらく理解が追いつかなかった。
「お嬢様。ネフィリスの姿が、どこにも見当たりません」
シェラが私の部屋の扉を叩いたのは、朝食を済ませた直後だった。
「見当たらない、というのは」
「昨夜のうちに、宮を出たようです。門番も、誰一人、気づいておりません」
その言葉に、私は昨夜の不安が、そのまま形を取ったのだと悟った。
あれほど言葉を尽くしたつもりだったのに、届いていなかった。
「部屋は」
「調べました。荷物はそのままです。ただ」
シェラは、一枚の紙を差し出した。
粗末な紙だった。
あの日、彼女の私室に置かれていたのと、同じ質の紙。
「これが、寝台の上に」<
翌朝は、灰色の雲が空を低く覆っていた。昨日のあの晴天が嘘のように、風は冷たく、庭の木々を重く揺らしている。私は夜明け前に目を覚まし、まだ薄暗い部屋で、旅の支度を進めていた。窓の外から聞こえるのは、風の音だけだった。「お嬢様。お支度、お手伝いいたします」シェラが部屋に入ってきた。彼女もまた、一睡もしていないような顔をしていた。「あなたも、休めていないのね」「あの者のことを考えますと、どうにも」その声には、苛立ちと心配が入り混じっていた。前世からの仲間が、また一人で危険に飛び込んでいく。彼女にとっても、それは決して他人事ではないのだろう。「シェラは、ネフィリスのことが嫌い?」「――いいえ」彼女は、旅装を丁寧に整えながら、静かに答えた。「腹立たしくはございます。ですが、あの者なりの理屈は、分かってしまうのです。それが、余計に厄介で」*朝議の間に、主だった者が集まったのは、日が昇り切る前だった。卓の上には、昨夜のうちに準備された書状の束が積まれている。アーデルハイド王国への入国許可願い、聖教会への謁見申請、そして使節団の名簿。ゼルとガイル様が、夜通しで整えたものだった。「使節としての体裁は、これで整いました」ゼルが、書類を私の前に押し出した。彼の目の下には、はっきりと隈が浮かんでいる。「名目は、婚約成立の正式な報告と、両国関係の改善に向けた協議。これなら、教会も表立って拒めません」「ありがとう。よくここまで」「当然のことでございます」彼は短く答えたが、その声には、いつもの余裕がなかった。五歳の身体に、この二日の緊張は重すぎたのかもしれない。「随行者は、最小限といたします」ガイル様が続けた。「殿下、ヴィオレット様、シェラ殿、そして護衛の騎士を十名。それ以上は、かえって警戒を招きます」
翌朝は、よく晴れていた。朝の光が、宮の白い石壁に跳ね返って、廊下をまぶしいほどに照らしている。庭の木々からは、季節外れに元気な小鳥の声が、絶え間なく聞こえてきた。あまりに穏やかな朝だったせいで、私はその報せを聞いたとき、しばらく理解が追いつかなかった。「お嬢様。ネフィリスの姿が、どこにも見当たりません」シェラが私の部屋の扉を叩いたのは、朝食を済ませた直後だった。「見当たらない、というのは」「昨夜のうちに、宮を出たようです。門番も、誰一人、気づいておりません」その言葉に、私は昨夜の不安が、そのまま形を取ったのだと悟った。あれほど言葉を尽くしたつもりだったのに、届いていなかった。「部屋は」「調べました。荷物はそのままです。ただ」シェラは、一枚の紙を差し出した。粗末な紙だった。あの日、彼女の私室に置かれていたのと、同じ質の紙。「これが、寝台の上に」私はそれを受け取った。指先が、かすかに冷たくなっていくのを感じた。*流れるような、美しい筆跡だった。『魔王様へ』『先日のお言葉、確かに承りました。一人で背負うな、と。仲間と共に考えよ、と』『そのお心を、疑うつもりはございません。ですが、あたしには、どうしても待てないことがございます』『村が焼かれました。次は、また別の村でしょう。そのたびに、魔王様は苦しまれる。あたしは、それを見ていることが、できません』『ですから、根を断ちに参ります』その一文で、私の指が止まった。『バルドウィン大司教。あの方さえいなくなれば、この争いの多くは、収まるはずです』『魔王様の御手を汚さぬために。あたしが、参ります』『どうか、お怒りにならないでくださいませ。これは、裏切りではございません。あたしなりの、忠誠でございます』そして、最後の一行。『ネフィリス』私は、そ
庭園でのあの日から、さらに数日が過ぎた。ネフィリスは宮での日々に、少しずつ馴染んでいた。シェラやゼルとの連携の仕組みも、細部が固まりつつある。あの告白以来、彼の表情には、以前より柔らかなものが増えていた。廊下ですれ違う侍女たちにも、気さくに声をかけるようになっていた。けれど、その平穏は長くは続かなかった。「殿下。南部より急報が」朝議の場に、ガイル様が青ざめた顔で駆け込んできた。手にした書状の端が、彼の手の震えを、そのまま伝えているようだった。「教会派の民兵が、国境沿いの村を一つ、焼き払いました」私は思わず立ち上がった。椅子が、後ろに大きく激しく音を立てて傾いた。「焼き払った、というのは」「帝国側に通商の便宜を図っていた村です。見せしめとして狙われたと思われます。死者は幸い出ておりませんが、村人たちは家を失いました」アルヴィス様の表情が硬くなった。円卓の上に置かれた地図を、彼の指先が、強く押さえつけている。「――我々への明確な挑発だな」「はい。ですが、こちらから手を出せば相手の思う壺かと」朝議の間に重い沈黙が落ちた。円卓を囲む誰もが、視線を落としたまま動かなかった。窓から差す朝の光さえ、いつもより硬く、部屋を照らしているように感じられた。私は拳を握りしめた。方針は変わらない。先に手を出さない。けれど、目の前で村が焼かれたという事実の重さに、その原則を貫くことの苦しさを、改めて噛み締めていた。焼け出された人々の顔を、私はまだ知らない。それでも、その痛みだけは、はっきりと想像できた。その様子を、部屋の隅でネフィリスが黙って見ていた。彼の表情からは、いつもの朗らかさが消えていた。朝議の後、私は廊下でネフィリスに呼び止められた。「魔王様。少し、よろしいでしょうか」その声は、いつもの柔
宮に戻ってから一週間が過ぎた。ネフィリスはまだ正式な役目こそ持たないものの、日々宮に通ってくるようになっていた。シェラやゼルとの打ち合わせを重ね、少しずつ仕組み作りが進んでいる。廊下ですれ違う侍女たちも、もう彼の姿に驚かなくなっていた。その日の午後、私は彼と二人、庭園で茶の時間を過ごしていた。アルヴィス様は執務で席を外しており、いつもの取り繕った男性口調も、今日はあまり必要なかったらしい。木漏れ日が、卓の上に、揺れる模様を落としていた。「――それで殿下がそうお答えになったんだけど、あたし思わず言葉に詰まっちゃって」ネフィリスは身振り手振りを交えながら、楽しそうに話していた。「本当に、あの御方は、どこまでもお優しくて」その語り口を、私はしばらく黙って聞いていた。風が庭木の葉を、さらさらと揺らしている。彼の表情は、初めて出会った日とは、まるで別人のように和らいでいた。「ネフィリス」「はい、何でしょう」「聞いてもいいかしら。あなたの話し方について」彼の手が、一瞬、止まった。カップを持ち上げかけた指先が、宙で静止する。「――やっぱり、気になりますよね」その声に微かな緊張が滲んだ。先ほどまでの朗らかさが、すっと影を潜めるのが見えた。「気になる、というより」私は言葉を選んだ。「初めて会ったときの、あの騎士のような話し方と、今の話し方。どちらも、あなたなのだと思うけれど。今の方が、ずっと自然に見えるの」ネフィリスは少し驚いたような顔をした。「――お気を悪くなさいませんか」「まさか」私ははっきりと答えた。「不思議には思うけれど、悪いとは少しも思っていないわ」彼はしばらく俯いていた。膝の上で、指先が、何かを確かめるように動いている。やがて、ゆっくりと口を開いた。「前世で、あた
宮に戻って三日が過ぎた。ネフィリスはまだ正式な役目を持たないまま、宮の一角に部屋を与えられていた。小さな部屋だったが、彼はそこを丁寧に整えていた。窓辺には、いつの間にか、南部の野草らしき花が一輪、水差しに活けられていた。その日、シェラとゼルが彼の部屋を訪ねると聞いて、私も同席することにした。三人の元四天王が顔を合わせるのは、あの街道での再会以来、初めてのことだった。「ネフィリス様」シェラが深く一礼した。その所作は、いつもと変わらず丁寧で、隙のないものだった。「前世からの仲間として、お話がございます」ネフィリスは警戒するように、じっと彼女を見た。「何のお話でしょう」「今後、独断で動くことは控えていただきたいのです」シェラは静かに続けた。彼女の口調は穏やかだったが、その奥には、譲れない一線を守ろうとする意志が滲んでいた。「何かあれば、まずわたくしたちに相談してください。あなた一人の判断ではなく、皆で考えるべきです」「――それは、少し違うのではないでしょうか」ネフィリスの声が低くなった。「相談してから動いていたら、間に合わないこともあるのではございませんか」その問いかけには、単なる反発ではない、実務的な鋭さがあった。「だからこそ、日頃から連携を」シェラが言いかけると、ネフィリスは遮った。「連携、連携と、簡単に仰いますけど」彼の声に、初めて棘が混じった。眉間に、微かな皺が刻まれている。「シェラ様も、ゼル様も。宮の中で、殿下や魔王様の近くにいらっしゃる。だからこそ、見えなくなっているものがあるのではございませんか」「見えなくなっている」私は思わず口を挟んだ。窓から差し込む光が、三人の間に、静かな緊張を照らし出していた。「はい」ネフィリスは私を見た。「お二人は、宮の政治に深く関わってい
宮に戻る馬車の中、私はネフィリスと向き合っていた。アルヴィス様も隣に座っている。ネフィリスは、まだ時折、彼を盗み見ては頬を赤らめていた。窓の外では、夕暮れの光が、次第に橙から紫へと色を変えていく。「ネフィリス。あなたのこと、もっと聞かせてほしいの」私が言うと、彼は居住まいを正した。膝の上に置いた両手を、行儀よく揃えて。「――あたしの、こと」「生まれてから今までのこと。全部」彼はしばらく窓の外を見つめていた。「生まれたのは、南部の小さな村でした。畑と羊しかないような」その声は静かで、どこか懐かしむような響きを帯びていた。乾いた土の匂いと、羊の鳴き声が、遠く聞こえてくるような、そんな穏やかな語り口だった。「前世の記憶は、物心からつく前からありました。ゼル様と同じだと、さっき、聞きました」「今、あなたは何歳なのかしら」「十四になったところです」やはり、十五歳よりも若かった。私やアルヴィス様、シェラ、ドルフ様は皆、十五年前に記憶を取り戻している。そしてゼル、ネフィリスは生まれ落ちた直後、既に前世の記憶をもっていた。十五年前に一体何が──と、考えずにはいられなかったが、ネフィリスは窓の外を向いたまま言葉を続けていく。「育ての親は貧しい農夫でした。ですが、優しい人たちでした」彼は微かに笑った。「あたしが女の子みたいな言葉遣いをしても。人形遊びばかりしていても。誰も咎めませんでした」「それは」「不思議に、思われますでしょう」彼は続けた。「あたしには生まれたときから記憶も力も備わっていた。その自覚がありました。ですが、しばらくは身体の方が追いついていなかったのです」彼は、少し困ったように笑った。「前世の技術をそのまま扱うには、器が育っていなければならないようでした。魔力を練り、隠蔽や水を操るためにも、幼い身体では、す